だが私がそう思い込んだのも、あの時ダリアは比較的元気だったからだ。自分ですたすたと歩き階段も上り、獣医科の待合室でもクンクンと嗅ぎ回ったり、私の膝にあごを乗せたり、今にも死んでしまいそうな様子では無かったから。その日の朝の散歩での夫との会話、「今日はいつもより遠くまで行ったよ。」「まだまだ元気だね。」が頭の芯に残っていたのかもしれない。

しかしダリアは私がいつ連れて帰るか、どうやって家で見取るかを悩んでいるうちに突然病院で寂しく逝ってしまった。そして私はダリアの死を真夜中の電話で告げられただけで、期待、不安、思惑や全てが真っ白に霧散してしまった。

   
 

たとえどれだけ考えて行動しても後悔は必ず付いてくる。今までの自分のあり方だってそうだったじゃないか、と自分に言い聞かせては見るものの、後悔は消えない。 ダリアをすぐに連れて帰って来たらどうだったろう。その日の内に息を引き取ったりしたら、「ああ、獣医に入院させておけば、、、」と思っただろう。自分が望んでいた家で見取る事が叶ったとしても「入院させていればまだ生きていられたかもしれない」と後悔しなかった訳は無い。

それが判っていながらも、今回はひたすら思った。家に連れて帰ればよかった。もしくは私が獣医科医院に行って付いていてあげればよかった。最後に体をさすって名前を呼んであげていたかった。誰もいないケージの中で寂しく息を引き取ったのだと思うと胸が潰れそうになった。14年間供に過ごした犬の最期の瞬間を共有出来なかった事、14年分の心からの感謝とさよならを言えなかった事。後悔、後悔、後悔。 信じられないくらい冷たくなったダリアの体にいくらそれを言ってももう届かないと確信してしまうから。

   

府中「慈恵院」

府中に慈恵院という動物の火葬、葬儀を行うお寺がある。 そのお寺の存在はインターネットで「犬スペース火葬」で検索して見つけた。 評判はどんなものかブログなども回って見た。悪い事を書いている人はいなかったし、むしろ目だったのはペットを失った人達からの感謝の言葉だった。 さっそく電話して火葬と葬儀をしたい旨を伝えると、予約は不要なので営業時間内ならいつでも良い、という丁寧な応対だった。 ダリアは獣医からダンボールの箱に入って家に帰って来た。自宅でのお別れの時、おやつのビスケットや縄で出来たおもちゃを傍らに並べ、新しいタオルをかけてあげていた。翌日、その箱のまま私達家族とダリアは慈恵院へと車で向かった。詳細な地図がウェブサイトにあり、迷わずにたどり着く事が出来た。

   
 

けして贅沢な作りの寺ではない。駐車場なども砂利をひいただけで粗末なのだが、どこか癒される雰囲気の場所だ。重たいダリアの箱を運ぶために台車を借りて、火葬受付の建物に入り申し込みを済ませた。朝早めに着いたのだが、すでにそこには二組の前客がいた。一組は若い夫婦、小さな箱には黒いネコが沢山の花に埋もれるようにして眠っている。猫と撮った写 真が数枚一緒に入れられているのが見え、生前そのネコがどれほど彼等に可愛がられていたのかが見て取れる。もう一人は初老の女性、箱の中にはやはり、ネコ。野良猫が死んでいるのを見つけたので供養してもらいに連れてきたとの事。お寺の受付の人は「野良ちゃんなので合同供養させていただきます。費用は寸志で結構です。」と彼女に言い、彼女は千円だけ渡していた。昨日から泣き通 しの私の涙腺も感情もはち切れていたのか、こういう情景を見ているだけで涙がまた溢れてきた。

   

受付でダリアといったん別れ、私達は待合室に通された。暖房の効いた暖かいその部屋でお茶とお菓子をいただいたいると僧侶が私達を呼びに来た。焼き場の方でダリアと最後のお別 れをして下さいとの事。待合室から50メートルくらい離れた立派な焼き場には炉が3つ並んでおり、その真中の前にダリアがいた。

最後のお別れ。ダリアの名を呼んで大好きだったサイエンスダイエットのトリーツをあげる。冷たい体を撫でる。本当にダリアのこの姿を見る事が出来るのは最後だ。僧侶が教を上げる。私達は順番に焼香する。人間の葬儀と同じにしてくれる。動物も家族の一員なので当然と言わんばかりに僧侶の読経は続く。胸が詰まる。焼香が終わり読経が終わり、ダリアの箱は炉の中に音を立ててすべり入れられる。扉がしまる。係りの男性が私達に一礼して立ち去る。炉の中からゴーッという火の噴出す音が聞こえる。放心する私に僧が再びさっきの待合室で40分程待つように言った。

焼き場を出て煙突を見上げるように振り替える。まだ煙は出ていない。

今ダリアはこの世から消えようとしている。