40分も時間があるから、この寺院の動物霊園に行って見ようということになった。ペットの納骨堂や人間と動物が一緒に入れる墓所もあるらしい。 動物霊園は本堂の裏手に広がっていた。けして広くはないが、所々に植え込みや背の高い木々があり全体的に緑に抱かれており、整然とし過ぎず質素な雰囲気だ。墓地の奥に納骨堂のような建物も見える。抜けるような青空の広がる肌寒い空気の中、私達は一つ一つの墓標を見て歩いた。犬の名や命日が刻まれた墓石、生前の犬ネコの姿がレリーフされた墓標、犬ネコへの感謝の言葉が掘り込まれた墓標。なんというかここは動物と人間の強い絆を感じる場所だ。

奥まで行くと動物の合同慰霊碑や実験動物などへの慰霊碑もあり、そこにはペットフードの袋や缶 、それにまだ鮮やかな花が山のように手向けられており、訪れる人が絶えないのだという事を教えてくれた。その日は平日だったが何組かの家族が訪れていた。休日や盆には相当な人出があると誰かのブログには書いてあったのを思い出した。けして誰もいない訳ではないが静かだった。悲しみが微笑みながら沈んで行くこの場所らしく、本当に静かだった。 しばらく歩いた後、待合室に戻りながら焼き場の煙突の方を見上げた。灰色の煙が雲一つない真っ青な空にうっすらと立ち昇って行った。一瞬だけだった。煙はすぐに見えなくなった。「さよなら。ダリア」と心が言った。

   
 

時間より少し早く同じ僧侶が私達を呼びに来た。焼き場に戻ると、炉の前の台でダリアが白い骨に変わっていた。最初は二人でお箸を使って骨壷にお骨を入れていく。骨を掴み上げながら「ここは肋骨、ここは脊椎骨」と係りの人が説明してくれる。頭の骨は、手の平で感じていたいつも撫でていたあの形をしている。最後にその頭の骨を一番上に乗せて、残りは塵取りに刷毛で集めてざらざらと骨壷に入れる。蓋をしてダリアの名前の入ったシールを骨壷に張ってくれた。大型犬なので人間用と同じ大きさの骨壷になった。その後また僧侶による短い読経。そして、さらにこれから本堂でもう一度供養のお経を上げてくれるらしく、骨壷を持って本堂にどうぞと言われた。焼き場の外に出ると骨壷はうっすらと暖かく感じた。

本堂には古さはないが威厳に満ちた金色の仏像が鎮座しており、その前にダリアのお骨と紙の位 牌を置いて再び読経が始まった。私達はここでもお焼香した。 読経が終わると僧侶は「これでご供養は終わりです。お気をつけてお帰りください。」と私達にやさしい声で挨拶した。私達も頭を下げてお礼を言った。

   

これでお寺での供養は終り、そう聞いて本堂を出たら心の重苦しさ息苦しさが少し軽くなった気がした。ダリアはこの小さな骨壷になった、今日からはこれがダリアなのだ。やっと少しだけ現実を受け止められた気がした。あの夜中の獣医からの電話の時も、獣医で冷たくなったダリアと対面 した時も、家族で何度も波の様に押し寄せる悲しみに嗚咽した夜も、心のどこかはダリアが死んだという事を受け入れていなかった。ドアの向こうから、冷蔵庫の陰から、ダリアが見えるような気がして変な感覚になっていた。いつも寝ているソファにまだいるような感覚だ。

ダリアのえさ入れにまだ食べ残しのドックフードがそのままになっていたのと同じように私達の意識にもまだダリアの存在がそのままになっていた。 しかし一連の慈恵院での供養は私達の気持ちに一区切りをつけてくれた。ほんの小さな一区切りだが、すこし人心地がついた事に安堵した。

   
 

帰る前に事務所に寄った。そこにはペットのための様々な供養グッズが展示されていたからだ。骨壷のカバーや色々なタイプの位 牌、写真入りのキーホールダーなどがあった。その中で私達は写真の入った位 牌を作ってもらう事にした。高さが15センチくらいの可愛らしい位牌には写 真と名前、命日や享年などを入れてもらえる。けして安くは無かったが、これを飾っておく事は時が経っても、かつてダリアという家族がいた事の証明になる。出来あがりまで2週間ほどかかったが、今この位 牌は家族の食卓を見渡せる場所に飾られている。

   

いずれまた犬を飼うだろう。人間以外の動物のいない家庭なんて私には味気ない。犬や猫、カメや鳥、そして魚だって一緒に暮らせば潤いになる。ましてや人間と心を通 い合わせる事の得意な犬という動物は生活に不可欠にさえ思える。

時々ダリアの眼差しを思い出す。

そしてダリアの死を忘れないためにこの文章を書いてみた。